民間信仰

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早良親王

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早良親王

【ご神徳】
疫病災厄退散。鎮魂の為に祀られたのが始まりだが、現在は地域の氏神として親しまれている。

【伝承地】
京都府長岡京市、淡路島

【継続】
光仁天皇(父)、高野新笠(母)、桓武天皇(兄)

【鎮座】
崇道天皇社(奈良県奈良市)、崇道神社(京都市左京区)、上御霊神社(京都市上京区)、下御霊神社(京都市上京区)、藤森神社(京都市伏見区)、加茂神社(岡山県苫田郡)など

【解説】

早良親王の生涯

早良親王は、十一歳で出家し、仏門に入ることとなった。
二十一歳で正式に僧侶となった。

七七〇年、父が光仁天皇として即位することになり
一度は僧侶となった早良だが、親王として遇せられた。

その後、兄が桓武天皇として即位し、早良親王は皇太子として立てられた。

(父・光仁天皇により桓武天皇即位の際は、
早良親王が皇太子となるように取り決められていたようだ)

桓武天皇はワンマンな人物で、周りに不満を抱く者も多かった。
天皇の側近には藤原種継がおり、実権を握っていた。

次第に、
桓武天皇-藤原種継
早良親王-大伴家持
というような図式ができあがってしまう。

桓武天皇は長岡京への遷都を推し進めており、種継が責任者に就いていた。
そんなよし、家持が東北に左遷されて、その身に堪えたのか死んでしまう。

そのひと月後、種継が暗殺されるという事件が起こる。

大伴氏の関係の者が捕まり、斬罪琉罪となる。
早良親王は謀反に加担した疑いをかけられ、
皇太子の地位を剥奪、淡路島に流されることとなる。

早良親王は、身の潔白を訴え、絶食して抗議した。

しかし、桓武天皇は耳を貸すことなく、
淡路島へ送られる途中、淀川の高瀬橋あたりを通過する際に早良は息を引き取った。
(享年三十六歳)

遺体は、非情にも京へ戻されることなく、淡路島にて埋葬された。

死後、怨霊となる

早良親王の死後、桓武天皇の近親者の死が相次ぐ。
そして、近畿一帯に疫病が流行し、多くの者が命を落とした。

桓武天皇の息子・皇太子の安殿が病に倒れ、
干ばつが続き、伊勢神宮が放火により一部焼け落ちたり、
淀川の大反乱があったりで、
参ってしまった桓武天皇は、
淡路島に勅使を派遣し、早良親王の霊に陳謝した。

(この間に、地震や富士山の噴火もあったようだ)

それでも相次ぐ近親者の死を受けて、
桓武天皇はついに、早良親王に「崇道天皇」の位を贈った。

だが、その甲斐むなしく、桓武天皇も病に倒れ七〇歳の生涯を終えた。

皇太子が即位し平城天皇となるが、在位期間はわずか三年と短かった。

鎮魂のため各所に祀られる

京都市上京区の上御霊神社は、
早良親王・井上大皇后・他戸親王 など、政界の闇に巻き込まれ非業の死を遂げた人物を祀っているが、
桓武天皇の御宇延暦13年5月崇道天皇の神霊を祀ったのが最初。

宮司の先祖が、早良親王の甥・五百枝王(いおえのおう)だということだ。

五百枝王は、早良親王の遺骨を淡路島から大和に持ち帰る役を受けた人物で、
桓武天皇の死後、願い出て皇族を離れたという。

同じく京都市上京区の下御霊神社にも、伏見区の藤森神社にも早良親王が祀られている。

また、崇道天皇八嶋陵がある奈良県には、小さいながらも、崇道天皇社、御霊神社がいくつもある。

遠方では、岡山県苫田郡にある加茂神社にもお祀りされているそうで、
全国に点在しているのかもしれない。

彼岸会は早良親王の供養だった

日本後紀「延暦二十五年三月辛巳の条」に、

「奉爲崇道天皇。令諸国国分寺僧春秋二仲月別七日。讀金剛般若經」

「毎年春分と秋分を中心とした前後7日間『金剛般若波羅蜜多経』を
崇道天皇のために転読させた」とあり、

桓武天皇を継いだ平城天皇が、崇道天皇(早良親王)の供養の為に僧を集め、法要をしたことが
お彼岸の行事の始まりだとする説があります。

とすれば、私たちは知らず知らずのうちに
年二回、早良親王を供養しているのかもしれません。

【挿絵解説】
無実の罪で散った憎悪と悲愴は怨霊となり、呪詛を振りまくべく舞い戻ります。
【参考資料】
(文章参考)水鏡全評釈、日本紀略、上御霊神社由緒、下御霊神社由緒
(挿絵参考)
日本紀略、上御霊神社