民間信仰

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崇徳天皇(すとくてんのう)

崇徳天皇(すとくてんのう)

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【別名】
新院、讃岐院(退位後)、崇徳院

【ご神徳】
なし

【伝承地】
香川県・京都府など

【継続】
鳥羽天皇(父)、後白河天皇(弟)

【鎮座】
白峯神宮(京都府京都市上京区)、天皇寺(正確にはその境内にある白峰宮・香川県坂出市)
【解説】

崇徳天皇について

崇徳天皇について先ずは簡単にその一生を説明しましょう。
崇徳天皇は1119年に鳥羽天皇の第一子として生まれます。その後、1123年に僅か4歳で天皇に即位しますが、曾祖父にあたる白河法皇による院政が敷かれていたこともあり、政治の実権は無いに等しい状態でした。白河法皇死後は父の鳥羽上皇が院政を敷く形となりました。
その後1141年に退位した崇徳上皇は和歌の世界に没頭するようになり詞花和歌集を選集した。
鳥羽法皇と崇徳上皇は対立していたと言われており、その象徴ともいえるのは『保元の乱』です。1156年、当時の皇位継承問題などが原因となり、朝廷が時の天皇(後白河天皇)と崇徳上皇派に分裂した政変のことをいいます。最終的に上皇側は投降することとなり、崇徳上皇は讃岐へ配流されてしまうのでした。その後、崇徳上皇は二度と京都の地を踏めることは出来ぬまま、8年後に崩御しました。

禍根から天狗

配流先の讃岐では、大乗経の写本を作り、戦死者の供養と反省の証として京都の寺に収めてほしいと朝廷に願い出たが、後白河院はこれを拒否した。これに激しく怒った崇徳院は「この経を魔道に回向(読み:えこう、転回する・変化するという意味)する」などと血で書き記し、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿となり、のちに生きながらにして天狗になったと言われています。

怨霊伝説と崇徳院の名

その後、崇徳院は罪人として扱われていましたが、死後10年経過すると後白河院の関係者が相次いで逝去し、安元の大火など大きな事件が相次いで起き平安が崩れ長く続く動乱の始まりともなりました。
後白河院は精神的に追い詰められてからか、讃岐院と言われていたのを崇徳院に改め、陵墓の近くに寺院が建立されました。これがのちの白峯寺と呼ばれています。
怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品でもそのように描かれ、菅原道真・平将門と並び日本三大怨霊の一つとも呼ばれるようになりました。
なお、京都府にある白峯神宮は明治天皇治世の1868年に讃岐から京都に崇徳院の御霊を帰還させて創建したといわれています。

■この神様に関連する主な神話

白峰「雨月物語-1768~1776年刊 著者:上田秋成-」

【挿絵解説】
その生い立ちに反して、彼が詠んだ歌は心穏やかでいて芯が通ったイメージがありました。
歌や写経に静かに込められた彼の激情を、私なりに表現してみました。

【参考資料】
(文章参考)白峯神宮由緒、吉記、雨月物語、保元物語など
(挿絵参考)保元物語、雨月物語、小倉百人一首、山家集など